「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」は私の人生の宝
50回・50年にわたり、「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」のシリーズを牽引していただいた中島警子さんにお話しをうかがいました。
永くなかった50年
――「宮城道雄をしのぶ筝の夕べ」は、こんどの第50回でシリーズの幕を下ろします。永きにわたり、まことにありがとうございました。
中島 私こそ、お礼を申しあげます。50年間は決して短くはございませんが、私は“永かった”と思っておりません。それは、このシリーズ演奏会は大阪新音のご主催ではございましょうが、宮城道雄先生のお名前が冠されていることもあり、私どもは“自らの演奏会”と考え、取り組んできたからでございます。また、演奏会の目的として“宮城道雄の業績と作品を伝える”とされていますので、それに恥じない企画、演奏を行うことを目指してきました。ですから、永かったどころか“もっと”という思いでございます。
――「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」は1973(昭和48)年にシリーズを開始しました。企画について、その数年前からご相談していたと思います。
中島 当時は大阪労音でしたね。「労音」には昭和30年代から、大阪にかぎらず各地から演奏のご依頼をいただき、ご縁がございました。
ただ、当時の「労音」は洋楽、とくに軽音楽やポピュラーなど流行音楽の演奏会を主にしておいででしたので、出演には戸惑いもございました。それでも、たまに開かれる〔笑い〕邦楽演奏会にはたくさん会員の方にご来場いただき、熱心にお聴きになられていたのをよく覚えております。
「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」に関しましては、1970年の大阪万博のころだったと思いますが、大阪労音の企画担当の役員さんと事務局の方が須山知行先生と私のところにおいでになり、「日本の伝統音楽や芸能をもっと若い人に聴いてもらおうというのが現在の方針です。ついては近代邦楽を革新された箏曲界の大家・宮城道雄師をテーマにしっかり構成された演奏会を、シリーズで開きたい。ぜひご協力をお願いしたい」と熱心にお話しになりました。
その頃、須山先生も私も、桐絃社主催の演奏会や一門の指導、関西一円の邦楽演奏会への客演、それに大阪音楽大学でも教えておりまして、2足も3足もワラジを履いておりましたので〔笑い〕ずいぶん迷いました。でも須山先生が「万博を機に日本人が世界に目を向けるのは大いに結構だが、自分たちの国の文化・芸術を知らずして真の国際交流はできない。大阪労音さんが持ってこられた演奏会の趣旨が“日本の伝統音楽や芸能をもっと若い人に聴いてもらいたい”ということなら、お引き受けしようじゃないか」と仰られ、この企画が動きだしたのです。
須山先生と相談いたしまして、このシリーズ演奏会は単に宮城先生の業績をしのぶだけでなく、新たな発展につながる内容にしようと考えました。そして当時、邦楽研究者として活躍していらした平野健次先生、久保田敏子先生らにご助言をいただき、作品の系譜をたどるだけでなく、トップクラスの奏者をお招きして、皆さまに一流の演奏を聴いていただくことを心がけることにいたしました。
意気込んで始めた演奏会
――シリーズ第1回は1973(昭和48)年6月23日、大阪市西区の大阪厚生年金会館中ホールでした。
中島 なつかしゅうございます。記録を見ますと、プログラムは、うてや鼓/水の変態/数え歌唄変奏曲/春の海/虫の武蔵野/さくら変奏曲/越天楽変奏曲と、全曲、宮城先生の作品でございました。曲問(幕間)には、平野先生のお話と俳優さんによる宮城先生の随筆の朗読を入れていただきました。こうした構成は、若い方々に邦楽をご理解いただきたい、最後まで聴いていただきたいという期待からでございます。
演奏曲は、名曲「春の海」をはじめ、いずれも宮城先生の代表曲中の代表曲でございます。「春の海」を合奏しましたとき、涙を流して聴いてくださった方が少なくなかったと後でお聞きしまして、私どもも感激しましたことを覚えております。
終曲の「越天楽変奏曲」は厳かで格調高い曲でございますが、私どもにとりましても、昭和22(1947)年の桐絃社創立演奏会の締めくくりに演奏した“記念の曲”で、それ以来、私どもでは重要な節目で演奏する大切な曲としております。ですので、第1回「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」で「越天楽変奏曲」を演奏いたしましたことは、このシリーズに寄せる私どもの期待、意気込みがいかに大きかったか…ということでございます。お察しくださいますと幸いです。
おかけさまで第1回は、会場の大阪厚生年金会館中ホール(定員1110人)は超満員となり、熱気にあふれました。6月下旬ということもありまして、客席は暑くてたまらなかったという“感想”を後でたくさんいただき、恐縮いたしました〔笑い〕。
ただ、開催日(6月23日)は、私どもが希望して設定していただきました。これは宮城先生のご命日(6月25日)にちなんだもので、「しのぶ夕べ」の演奏会タイトルと、いわばセットでございました。第2回以降も、そのような日取りにしていただいております。
主な宮城作品ほぼ演奏
――1973年の第1回から今日まで、たくさんの箏曲作品をお聴かせくださいました。
中島 当初は宮城先生の作品だけで構成し、その中に「春の海」を必ず入れる心づもりでしたが、邦楽を知っていただくためにもう少し幅を広げようということになりまして、程なくして宮城作品だけでなく、先生がお好きだった古典曲、同じ時代に活躍された方々の作品、そして評価の高い現代曲なども取り上げることにいたしました。ただ、どの回も終曲には、宮城箏曲ならではの規模の大きな箏合奏曲を配しています。それにより、宮城先生の主要な作品はこれまでに、ほぼお聴きいただけたと思います。
回を重ねるにつれ、プログラム構成に苦労するようになりましたのは事実でございますが、桐絃社門人の意見も採り入れながら工夫し、演奏会として豊かな内容をおおくりすることができたと、私どもは自負しております。
――会場も、1991(平成3)年の第19回から、いずみホールに移りました。
中島 大阪厚生年金会館(1968年開館、2010年閉館)の中ホールは響きが良くて、須山先生も私もお気に入りでしたが、昭和60年ころから「座席がギシギシ鳴る」、「座り心地が悪くなった」というご指摘が聞かれるようになりました。老朽化ですね。私どもも心配しているところへ、大阪新音さんから「先頃(1990年)オープンした“いずみホール”はクラシック専用をうたっていますが、邦楽演奏会も可能ということです。この際、移ったらどうでしょう」と仰ってくださったので、引っ越した訳でございます。須山先生は「音響がすばらしい、演奏しがいがある」と大変喜ばれました。私も、音響はもとより、豪華ながら落ち着いた雰囲気に感激しました。しかし、ステージに幕かおりませんので、一門には抵抗する者もおりましたが〔笑い〕「お客さまに、暗転中の舞台替えをご覧いただくのも趣向であるし、きびきびと動けばきっと感心してくださる」と押し切りました。ご来場の皆さまには予想どおり大好評で、いずみホール(現 住友生命いずみホール)での演奏会は、私どもにとりましても誇れる会でございます。
――“むすびの会”を迎えてのご心境をお聞かせください。
中島 私はことし満100歳となります。その半生をかけて「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」シリーズに取り組ませていただきました。おかけさまで、箏曲家人生の大きな宝の一つとなりました。
ご支援くださいました皆さまに心よりお礼を申しあげます。ありがとうございます。
(取材・記事 大阪新音)*インタビュー2025年1月