インタビュー 小山 実稚恵さん

「不屈の意志」 示した最後の3ピアノ・ソナタ ベートーヴェン第30~32番

デビュー40周年記念で演奏

 小山実稚恵さんが「人生をともに歩んでいきたいと思っている作品」を選んでもらい、テーマ立てをしながら綴っていく、大阪新音企画の演奏会「小山実稚恵のピアニズム」。
2025年4月のシリーズ第3回では、ベートーヴェン(1770~1827)の「最後の3大ピアノ・ソナタ」、第30番・31番・32番が一挙に演奏されます。テーマ(モチーフ)は「永遠の命」です。25年はデビュー40周年にあたり「演奏会はその記念」と話す小山さん。プログラムへの思い入れなどを聞きました。(取材・記事 大阪新音/インタビュー 2024年11月)
 ──小山さんは2025年にデビュー40周年(演奏家生活40年)を迎えられます。記念の年、節目の年ですね。
 小山 そうなのです。チャイコフスキー国際コンクール(ピアノ部門、1982年)に出場したときはまだ学生(東京芸術大学大学院生)で、次の85年のショパン国際ピアノコンクール出場を機に正式に演奏家として活動を始めましたので、2025年が40周年になります。
 「40年」は私にとって大きな節目と考えていますので、東京・サントリーホールで2022年から25年まで年1回、4回にわたる協奏曲シリーズ「Concerto〈以心伝心〉」に取り組んでいます。大阪では、こんどの「ピアニズム」シリーズ第3回を40周年記念にしたいと思っています。

「一挙演奏」は特別なこと

 ──そこで、プログラムをベートーヴェンの 「最後の3大ピアノ・ソナタ」一挙演奏になさった訳ですね。
 小山 実は、この最後の3大ソナタは「ベートーヴェン没後200年」の2027年のプログラムにと考えたこともありましたが、こんどの大阪での記念リサイタルでどうしても演奏したくなって、取っておくのをやめました。(笑)
 ──ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番・31番・32番のそれぞれは、先の「ベートーヴェン、そして…」シリーズ(2019~22年)や、かつての12年間・24回の「ピアノ・ロマンの旅」 シリーズ(2006~17年)においても演奏なさっています。でも「3曲を一挙に」というプログラムはあまりお目にかかっていませんね。
 小山 3曲を一度にというのはCDの企画として始めましたが(CDリリースは2021年)、演奏会のプログラムとなると、やはり特別なことと考えていましたので、ほとんど行っていません。でも、こんどは私にとって大きな節目のリサイタルですので、ぜひとも演奏したいと…。
 私が、ベートーヴェンのそれらの作品に格別の思いを募らせたのは、やはりコロナ禍が広がったときです。この「ピアニズム」シリーズ第1回のときにお話ししましたが、演奏会が次々と延期や中止になっていくなかで、私はコロナ禍が人間に警鐘を鳴らしたのではなかったかと思ったりしました。平和におぼれ、私たちは自然に対して傲慢(ごうまん)になっていたり、対人間でも感謝を忘れたりしていたのではなかっただろうか、と気づいたのです。
 そしてその時期にベートーヴェンの「生誕250年」(2020年)が訪れたことは決して偶然ではなく、「苦悩を乗り越えて希望をつかみ取れ」という、ベートーヴェンからのメッセージのように思ったのです。
 私の学生時代の恩師はドイツ音楽、とりわけベートーヴェンに傾注されていましたので、私はその影響を大きく受けています。その頃、すでにベートーヴェン作品の虜(とりこ)になっていましたが、演奏家として独り立ちしてからはなおさらというか、ベートーヴェン無しではいられなくなりました。それはともかく、ベートーヴェン作品は、ピアノ・ソナタやシンフォニー、そのほかもみな、演奏する者・聴く者への迫り方が特別なのです。時代や状況を超えてダイレクトに訴えてきます。それに触れると魂を揺さぶられます。心をわしづかみにされるのです。ですので、コロナ禍のさなかに先ほど申したようなことを感じて、私自身、ベートーヴェンの曲をもっと深め、皆さまに聴いていただきたいと強く思うようになりました。そして何かに突き動かされるように、こんどの40周年記念の大阪リサイタルのプログラムに「最後の3大ピアノ・ソナタ」を選んだのでした。テーマを〈永遠の命〉として…。

異なる個性をもった3曲

 ──「最後の3大ピアノ・ソナタ」 の各曲の特徴、魅力といったところをお話しいただけますか。
 小山 そうですね。ベートーヴェンはこの3曲に、それまでからのフーガ〔注1参照〕や変奏曲形式の技法を引き継ぎ、発展させ、自分の人生観を注ぎ込んだといえるのではないでしょうか。でも3曲は、1822年までの数年間にほぼ並行して作られながら、それぞれ違う個性を持っています。
 まず第30番(1820年完成)は、前作の、あの壮大な第29番 「ハンマークラヴィーア」(1817年完成) とは対照的に、大変落ち着いた、美しく抒情的なソナタです。演奏時間も29番の半分ほどです。でも音楽密度は高く、とくに民謡ふうの主題(テーマ)と6つの変奏曲による第3楽章には心の底から湧き上がる感動を覚えます。その主題(テーマ)は最後に回帰し、もう一度演奏します。まるでバッハのゴルトベルク変奏曲のようです。作曲者が「歌うように、心の奥からの感情を込めて」(第3楽章の発想指示書き)演奏するよう求めているとおり、まさに「歌」を感じる曲です。
 次の第31番(1821年完成)は、先の30番以上に抒情的です。第1楽章に「愛をもって」という発想指示がありますが、本当に慈愛に満ちた豊かな楽章です。第3楽章は、歌詞をつけて歌いたくなるような美しさと哀しさをたたえたメロディ…… いわゆる「嘆きの歌」ですね、それと規模の大きなフーガが聴きどころです。「嘆きの歌」は、最後には希望に満ちたフィナーレを迎えます。私はコロナ禍のさなかの、出口が見えていない頃、この31番にものすごく心を揺さぶられました。

魂は高揚し さらなる高みへ

 ──さて、最後の32番ですが…。
 小山 第32番(1822年完成)は文字どおり、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後を飾る傑作です。他のピアノ・ソナタにはない2楽章構成です。ハ短調の第1楽章は劇的な減7度のオクターブ下降で始まります。この 「ハ短調」って、まさにベートーヴェンなのです。第5交響曲の「運命」、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」 … などベートーヴェンの名曲にはハ短調が多いんです。作品1のピアノ三重奏曲もハ短調です。きっと、ベートーヴェンにとってハ短調は、自分が表現したいものにピッタリの調性だったのでしょうね。32番も、そのハ短調で自在の展開をしていきます。
 第2楽章は、美しくシンプルなアリエッタ(歌)を主題(テーマ)とする5つの変奏曲で綴られています。変奏が進むにつれ、それぞれの美が集約してゆき、高音域のトリル〔注2参照〕が多用されます。その第2楽章のシンプルなハ長調の響きが美しいのです。ハ長調は音楽の基点です。ハ短調の第1楽章で始まり、第2楽章のハ長調に向かうという展開には、ベートーヴェンの「苦悩から歓喜へ」という不屈の意志が非常に強く反映されていると思います。そこにおいて魂は高揚し、浮上し、さらなる高みへと繋がっていきます。ですから〈永遠の命〉なのです。
〔注1〕 フーガ = 曲の途中から、前に出てきた主題(テーマ)や旋律が次々と追いかけるように現れる楽曲のこと。
〔注2〕トリル = 音楽を感情豊かにするために付け加えられる装飾音の一種。ある音と、その隣の音を素早く交互に演奏します。語源は「鳥のさえずり」(イタリア語) です。

「小山実稚恵のピアニズム」2025に寄せて
最後の3曲のソナタ。
ベートーヴェンの音楽人生がピアノの響きのなかで走馬灯のように流れてゆく。
〈真実・命〉 〈愛・嘆き・希望〉 〈意志・浄化〉
弾く者も聴く者も、ソナタに込められたベートーヴェンの魂に打たれ、
そして、新天地へといざなわれてしまう。
ベートーヴェンは、やはり未来を凝視している作曲家なのだ。

小山実稚恵

本インタビューを含むリーフです。印字はこちらをご利用ください。

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